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2021-07-27
東京オリンピックがついに始まりました!
前回の1964年、私は小学校5年生。10月10日の
開会式前日は土砂降りの雨天、当日は雲一つない秋晴れ!
午後2時からギリシャ選手団の入場行進が始まり、
その後航空自衛隊機が上空に五輪を描いたのですが
外に出て東京方面を見るとこの5つの輪が見えたのです!
ある日、私たち家族は父に連れられ国立競技場へ。
チケットはなく競技場の周りを歩いていると中から大きな
どよめきが聞こえ、あとで分かったのは棒高跳びの決勝で
アメリカが勝ちオリンピック15連勝を果たしたこと。
保管している当時の新聞や雑誌を見ると、その日は
10月17日、土曜日ということが分かりました。
つまり学校が引けた午後、会場に向かったのです。
そして最近その時の写真が見つかりました!
バレーボール決勝の対ソ連戦、陸上100mで10秒を切った
ヘイズ、そしてマラソンのアベベと円谷など新聞を見ると
当時の記憶が鮮明に浮かびます。
さて57年前と同様、私は無観客の国立競技場へ。
千駄ヶ谷駅を降り、東京体育館を左に折れると改築された
競技場が正面に見えてきましたが、周囲は高い塀に囲まれ
敷地内に入れないばかりか半周すると交通止め。
人通りは少なく神宮球場の向かいの五輪モニュメントの前は
唯一記念写真のための列が出来ていました。
私は青山通り経由でいちょう並木を絵画館まで行きましたが
この周辺も閉鎖、結局外側をさらに廻って信濃町駅側から
やっと国立競技場へ。しかしどうしてこうも人を締め出すのか?
‟安全第一の事なかれ主義“しか思い浮かびませんが、この考え方が
この国を覆っているとすれば日本の将来は…心配しすぎでしょうか。
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ページ作成日 2021-07-27
2021-06-02
新聞を見ていたら「戸塚のシンボル改修」という見出しが…
この建物は横浜薬科大学の図書館棟で、かつて「横浜ドリーム
ランド」にあった「ホテルエンパイア」だったのです!
横浜ドリームランド…子供の時、家族で一度行ったときの
印象は強く、広い敷地に高層ホテルがそびえ立っていたことを
覚えています。そのホテルが形を変えて現存しているとは…。
東京ディズニーランドの開園の約20年前にオープンした
テーマパークの先駆けのドリームランドがなぜ姿を消したのか?
ずっと疑問に思っていたのでこの機会に調べてみました。
横浜ドリームランドは昭和39年に開園。敷地は132万㎡と
本家アメリカ・ディズニーランドの何と3倍の広さ!運営する
日本ドリーム観光はその3年前に奈良ドリームランドもオープン。
ジャングルクルーズや潜水艦、外周列車などは、当時多摩川園
など近くの遊園地しか知らなかった私にとって、別世界に来た
ようでした。その時の写真が最近見つかり、よく見ると21階建ての
五重塔をモチーフにしたホテルは工事中で「大林組」の看板が。
“本家”をしのぐ規模の横浜ドリームランドの欠点は交通の便の悪さ。
そこで開業の2年後、大船からモノレールを運行させたが1年半で
運休に。原因は車両の重さに橋脚が耐えきれずヒビが入ったのです。
売上減に伴い敷地は徐々に売却され住宅団地に変わり、不振の日本
ドリーム観光は1993年ダイエーの傘下に入ったが、そのダイエー
自体が経営難に陥って、2002年に37年の歴史に幕を閉じました。
閉園時の敷地は13万㎡で、開園時の1/10まで減少したとは!
その後横浜市が敷地の一部を買い取り2005年に俣野公園が開園、
翌2006年には横浜薬科大学が開校し、ホテルは図書館棟として保存、
屋根など手が加えられ五重塔ならぬ“戸塚のシンボル”になったのですが
こんな形でも残ったことを良しとしましょうか?
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ページ作成日 2021-06-02
2021-05-20
先週土曜日、大船駅前のあるレストランへ。
ここにはグランドピアノが置いてあり、ときどき
ランチコンサートなどが行われているようですが
この日は高校のクラブの後輩が室内楽を演奏するのです。
。
バイオリンを弾くG君は金融機関に勤めながら鎌倉にある
市民オーケストラのコンサートマスターを務めていて
時おり演奏会の案内を送ってくれます。当日のプログラムは
ベートーヴェンのピアノ三重奏曲の2曲です。
私が高校在学中の昭和44年、友人2人と立ち上げた
「クラシック音楽同好会」は40数年経って「部」に昇格し
OB会も出来て後輩のG君とも交流が始まったのです。
室内楽を間近で聴けたのは良かったですが少し密な感じが…。
帰りがけに横浜で下車し、バラのシーズンということもあり
「港の見える丘公園」へ。ここは山下公園と並ぶ海沿いの名所で
30年前にバラ園がオープン、バラは横浜市の花でもあります。
明治に入り横浜が開港されこの一帯は外国人居留地となり
太平洋戦争後も進駐軍が接収、その後横浜市が公園用地として入手、
公園としてのオープンは昭和37年、戦後ヒットした流行歌
「港の見える丘」にちなんで命名されました。
中華街方向から数百段の階段を上ってフランス山地区という
旧フランス領事館があった大きな樹木の生い茂る高台へ。そこに
再現された風車はかつての公邸の井戸を汲みあげるためのもの。
その先の展望広場で横浜港のベイブリッジを眺めてから
イギリス山地区に入ると大佛次郎記念館や、昭和12年に英国
総領事公邸として建てられたイギリス館まで様々なバラや草花が
咲き乱れ、このシーズンのバラはここで十分堪能できました。
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ページ作成日 2021-05-20
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