市川社長のブログ
御岳講
- 2008年4月21日 10:43
毎年4月18日は地元新城の「御岳講」の日です。
御岳山は東京の青梅市、秩父多摩国立公園内にあり
古くから山岳信仰の霊山として多くの人が訪れ
江戸、天保年間の「御嶽山壇中姓名帳」の中には
新城村の人々の名前があるそうです。
娯楽などほとんどなかった時代に
年一回の御岳詣を村の人たちがいかに
楽しみにしていたかは容易に想像ができます。
御岳山までは新城から約50キロの道のりですので
立川あたりで一泊して行ったのでしょうか。
今はケーブルカーで御岳山駅まで行き
茅葺き屋根の宿坊などを見ながら
なだらかな上り坂を約30分登って行くと
武蔵御嶽神社に到着します。
現在の拝殿は元禄の時代に徳川幕府により
造営されたものです。
宿坊は本来僧侶のための宿泊施設でしたが
平安時代に寺社参詣が貴族や武士のあいだに普及して
僧侶以外の人も泊れるようになりました。
平成19年には「美しい日本の歴史風土百選」のなかで
「御岳山・御嶽神社」が準百選に選ばれました。
ゴールデンウイークに新緑の御岳山詣でなどいかが?
(社長)
新城講で奉納した江戸中期より伝わる太々神楽
歌舞伎座
- 2008年4月12日 18:05
昨日、地元の信用金庫の観劇会で歌舞伎座に行って来ました。
昼の部は3本立てで私が感銘を受けたのは3番目の「刺青奇遇」。
これは「一本刀土俵入」などを著した長谷川伸の原作で
人情の機微を描いた昭和の新歌舞伎の名作と言われているそうです。
これを当代の2大スターの玉三郎と勘三郎が共演
夫婦の情愛をたいへん巧みに表現した熱演で
私は不覚にもハンカチを濡らしてしまいました。
こう書くと、私が歌舞伎通のように聞こえるかもしれませんが
実は、初めて歌舞伎座に行ったのはほんの5,6年前なのです。
子供の頃から音楽といえば洋楽一辺倒でしたが
年とともに端唄、長唄、謡いなどの邦楽にも
だんだん興味を持ちはじめていました。
それでも不思議と歌舞伎座へ行く機会は
その時までありませんでした。
歌舞伎を見るなら東銀座の歌舞伎座。
歌舞伎座は明治22年に開場
大正14年には今のものの原型となる
桃山様式風の鉄筋コンクリート造の建物が完成しましたが
昭和20年には空襲で大屋根が落ち、内部が焼失しました。
その後昭和26年に現在の形に復興され
数多くの名舞台を送り出した歌舞伎座は
昭和63年には開場100年を迎えました。
しかし数年前、松竹は歌舞伎座の再開発を計画し
劇場は新しい高層ビルの下に入る、ということを聞いたとき
世界に誇れる日本の伝統文化の殿堂とも呼ぶべき建物を
どうして壊さなければならないのか、と思いましたが
幸い何かの理由で計画は現在中断しているようです。
ガラス張りのビルに入って歌舞伎を鑑賞することは
想像するだけでも興ざめだと私は思うのですが・・・
(社長)
職場の教養
- 2008年4月 3日 17:09
当社では今月から朝礼のやり方を一部変更しました。
「職場の教養」という30ページの小冊子を輪読することにしたのです。
当社の加盟しているあるグループの
新年研修会が1月にありました。
参加している中ではNo.1の実績の会社の人との懇談の中で
朝礼のやり方を聞いてみると、毎日「職場の教養」を読んでいる、とのこと。
早速取り寄せて、当社でも購読することを決めました。
「職場の教養」は毎月1冊発行され、1ヶ月30日分の
毎日異なるテーマに基づく短い文章が載っています。
例えば4月1日は「チャンスを引き寄せる努力」というテーマで
人事異動で昇進した同僚をうらやむ社員に
先輩から「彼は人の見えないところで努力を続けて
自分からチャンスを引き寄せてそれを掴んでいるのだ」
と言われて初めて確かにその同僚が人より早く出勤し
机の整理整頓をしていることに気がつき
翌朝、いつもより30分早く出社してみた
というような内容が400字程度の文章で表されています。
「教養」を辞書で引いてみると
「学問や精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさのこと」
とあり、いずれにしても一朝一夕で得られるものではありません。
活字離れが言われて久しい若者に読書を勧めるより、毎日朝礼で
一話ずつ読んでゆく方が時間はかかりますが効果的だと思い、始めました。
企業倫理が問われている昨今、社員各々が本当の教養を身に付けられるよう
毎日一歩ずつ進んで行きたいと思います。
(社長)
『破天荒力』
- 2008年3月18日 18:01
神奈川県知事の松沢成文氏の著書『破天荒力』が映画化され
この度公開されましたが当社も出資の協力をさせていただき
製作委員会に名前を連ねました。
原作は明治初期から箱根の開発に尽力した実業家や
彼らに影響を与えた福沢諭吉などの足跡を描いたものです。
私はこの映画にも登場する、日本最古のクラシックホテルである
箱根の富士屋ホテルの創業者の山口仙之助を始めとする一族の年代記を
仙之助のひ孫にあたる山口由美が著した「箱根富士屋ホテル物語」を
たまたま昨年読み終えたところでした。
「明治初期に仙之助が岩倉使節団とアメリカに渡った」と書かれている
ホテルの80年史に著者が興味を持ち、その真偽を確かめるところから
「富士屋ホテル物語」の方は始まりますが
アメリカに渡り、皿洗いをして苦学したという仙之助が
帰国後慶応義塾の門をたたき、ここで福沢諭吉との接点がまず見えてきます。
諭吉は湯治でたびたび箱根に通い、新道の開発を主張していたことが
当時の県知事への手紙の中に認められます。
仙之助は明治11年に宮ノ下に富士屋ホテルを創業し
明治20年には多額の資金をつぎ込み
塔乃沢から宮ノ下までの道路を切り開きました。
そして道路の通行料を取り借金の返済にあて
今の有料道路の原型を作ったと言われています。
また日光の老舗の金谷ホテルから来た養子の正造も
若いときにアメリカのサンフランシスコからさらにロンドンに渡り
ヨーロッパに紹介されたばかりの柔道の学校を開いて成功して
11も部屋がある屋敷に住み6人の使用人を雇うまでになり
現地の女性と恋に落ち結婚まで考えるのですが
結局8年後に帰国して仙之助の長女と一緒になり
箱根で新しい人生を踏み出します。
その後時代は移り、太平洋戦争直後にはアメリカに接収されて
ホテルは昭和29年まで進駐軍の専用施設になっていました。
また一族の内紛から株が横井英樹氏の手に渡るところを
小佐野賢治氏に援助を仰ぎ切り抜けるなど色々な紆余曲折があり
現在ホテルの所有は山口家の手を離れています。
私はこの本を読んだ直後、明治から戦後までこのホテルを中心とした
壮大なクロニクルを映画にしたらさぞ面白いものができるのでは
と一人想像しました。
今回上映された映画は私の考えていたものとは少し違うものでしたが
神奈川県には「私」を薄くして「公」のために尽くす
破天荒な生き方をした先人たちがいてその高い志を少しでも受け継いでいきたい
と願う松沢知事に私も強い共感を覚えました。
(社長)
ペット
- 2008年3月 8日 15:05
いまペットは家族の一員としてパートナーとして
欠くことのできない存在になりつつあるのですが
賃貸物件でペットの飼えるものは需要に対しまだ供給が少なく
当社が管理しているあるペット可の建物などは駅からはバス利用でも
空き部屋ができるとすぐ埋まってしまうのが現状です。
このようにペット愛好家が多い中で、実は私は今まで一度も
ペットを飼ったことはありませんでした。特に動物が嫌いと
いうわけではないのですが・・・
その我が家に今週から家族が一人、いや一匹増えたのです。
先週、一人暮しをしていた私の義母が亡くなり、飼っていたネコの
「レオ」が私の家に引き取られることになりました。
アメリカンショートヘアのミックスで、11歳のオスネコです。
私が椅子に座っていると、その前を行ったり来たりして
わざと体やしっぽを私の足にすりつけたり、頭突きをしたりします。
自分にとって安全な人物かどうか確かめているのでしょうか?
また、ネコは人間の言葉が分かるという人がいるので
試しに「タマ、ミケ、レオ」と呼んでみると、確かに「レオ」の時だけ
顔を上げて私のほうを見るのですが、これは偶然なのでしょうか?
ネコの好きな方、詳しい方がいらしたらぜひ教えてください。
(社長)
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