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市川社長のブログ

再 会

  • 2011年6月10日 14:57

大箸和夫さんは20年くらい前に当社を退職され
その後2,3度お会いしたきりで、季節の挨拶をはがきで
交わす程度のお付き合いが続いていました。

4月に届いたはがきには、昨年入院して体調を崩してから
ご夫妻でシニアマンションに入居した旨が記されていました。
私はお元気なうちにどうしても、もう一度お会いしたいと思い
税理士の布野先生と、先週大箸さんを浜松に訪ねました。


大箸さん1.jpg


当社では早い時期から、会社向けの寮などの賃貸建物を
建てていましたが、それらを木造からRC造や鉄骨造に建て替えて
賃貸収益が倍増した原動力は、大箸さんの力によるものと言って
過言ではありません。

明治生命を退職後、子会社の不動産会社、ダイヤ住宅の
社長を務めた大箸さんは、顧問をしていた布野先生の紹介で
昭和60年に当社に入社し不動産部長、役員に就任しました。

大箸さんはダイヤ住宅をリタイアしたあとは故郷の浜松に戻って
父上がかつて町長をされていたので、その方向も考えていたところ
布野先生の強い勧めがあったので当社に入社することになった
ということを今回の訪問で初めてお聞きしました。


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その頃の当社は、多摩区菅に保有する山林をいかに利用するかに
社運がかかっていて、大箸さんは入社後取り付け道路の買収に尽力し
周りの地主と広域な計画について協議していましたが、その矢先に
川崎市が保全緑地に指定して、市に買い上げられることになりました。

その資金で木造の賃貸を、RC造に建て替える同意を得るため
私は大箸さんの後について借主の企業を1社ずつ回りました。
「ある会社の好調な業績が新聞に出ていたのを見て、これは
いけるかもしれないと思った」交渉のきっかけについて
当時を思い出して、大箸さんはこのように語りました。


大箸さん4.jpg


浜名湖畔に建つRC造7階建てのマンションはヨーロッパの
リゾートを思わせる雰囲気で、大正8年生まれの大箸さんは
日経新聞を読むことを未だ欠かさず、この訪問に備えて?
パソコンですでに私のブログをチェックされ、"地域に必要な
企業であり続ける"という会社理念も方向性が明確だ、と称賛。

「あのとき故郷に戻らないで、布野先生の"馬には乗って
みるもの"という言葉に従って良かった。」
柔和な笑顔と経営を見通す確かなまなざしは全く変わる
ところがありませんでした。


大箸さん6.jpg

お別れの会

  • 2011年6月 1日 20:23

亀ヶ谷邦博さん、享年66歳。4月のあまりに若く
しかも突然の死は関係者に大きなショックを与えました。
そして今週の月曜日にお別れの会が開かれました。


亀ヶ谷さん.jpg


2007~08年度のロータリーの当地区のガバナー
そしてドラッグストアー「フィット・ケア・デポ」を
約60店舗にまで発展させた㈱カメガヤの会長。2008年に
オープンした下小田中店は当社の施工です。(写真下)


亀ヶ谷さん7.jpg


4月23日にアメリカ・サウスカロライナ州に出発する
ロータリーの当地区の5人のGSEチームの壮行会が
前週11日に開催され、亀ヶ谷さんはご夫妻で出席されて
いつもの笑顔でチームメンバーを激励されました。(写真下左端)


亀ヶ谷さん4.jpg


ちょうどその3日後、奈良県熊野の玉置山へ参拝された帰り道
滑落して帰らぬ人となったのです。人一倍慎重で学生時代は
山岳部にも所属していた人がどうして・・・

私は亀ヶ谷さんがガバナーを務めた年度に初めてGSE委員になり
ウエストバージニア州からのGSEチームの団長グレッグが
当家にホームステイしたことがきっかけで、その翌年には
私たち夫婦が渡米してグレッグの家に滞在し大変な歓待を受けました。

グレッグのロータリークラブのメンバーと会食した折
「クニは元気か?」と私に問いかける人がいました。彼は
トムというパストガバナーで、"クニ"とは亀ヶ谷さんのこと
同期のガバナー同士として世界会議で面識があったのです。


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       (左端がトム、右から2人目がグレッグ)

そして昨年10月はサウスカロライナ州からGSEチームが来日し
そのうち2人が亀ヶ谷さん宅にホームステイ。その一人のバーネルとは
亀ヶ谷ご夫妻、そして私もかなり親しくなっていたのでこの訃報を
伝えたところ、彼女から本当に悲嘆にくれたメールが返って来て
私はそれを読んで涙を禁じえませんでした。


亀ヶ谷さん3.jpg


昨年は業界の大きなイベントの実行委員長を務め
12月には㈱カメガヤの社長を若い世代に譲って
広い視点から経営を見ながら、ロータリーやほかの
奉仕活動に従事できる体制を作ったように映りました。

「マネジメントとは自分がいつ死んでもいいようにしておくこと」
亀ヶ谷さんは生前このように言っていたそうで
自らの生涯をその言葉通りのものにして逝ってしまいました。
本当に尊敬できる人を失った心の痛みがなかなか癒えないでいます。

断髪式

  • 2011年5月30日 16:54

元前頭の春日王がこの度引退し一昨日国技館で断髪式行われ
当社お客様の伊藤稔さんからお声がかかり参加しました。

数年前にやはり伊藤さんのお誘いで川崎市唯一の相撲部屋の
春日山部屋の後援会に入って激励会に初めて出席したとき
春日王がちょうど私の向いの席で、その人柄、周囲に対する
気配りに一度でファンになったことは以前ブログにも書きました。


断髪式1 (1).jpg


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韓国生まれの春日王は3歳で父親を亡くし、大学3年のとき
韓国相撲のチャンピオンになり、春日山親方に誘われて来日。
1998年11月に初土俵を踏みその後順調に出世して、2002年
7月に十両に昇進し、初の韓国出身の関取となりました。

2003年1月場所で新入幕を果たし、その場所は10勝5敗で
敢闘賞を獲得し将来を嘱望されたのですが、その後は
足の肉離れや痛風に悩まされ、最高位は前頭3枚目でした。

私が彼と何回か話して感じたのは、あまりに性格が良すぎて
格闘技には不向きではないかということで、前頭で終ったのは
怪我のせいだけではないような気がしています。


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今回の断髪式ではさみを入れた人は260人。
アイウエオ順に名前が呼び上げられ土俵に上がります。
私のすぐ後に伊藤さん(写真下)しばらくして税理士の布野先生。
芸能界からは松方弘樹や韓国通の黒田福美が参加。
一般の後は幕内力士で横綱白鵬も最後に加わりました。


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春日王は先場所十両で優勝してこれからという矢先に
八百長疑惑に巻き込まれ、協会から引退勧告があり
受けなければ部屋の存在も危うい状態の中で弁明の余地も無く
「問答無用」のかたちで引退を余儀なくされたのです。


断髪式1 (7).jpg


彼は相撲界から足を洗い、これから日韓の間をビジネスで
行き来するようです。常に相手の事を先に考え、人をそらさない
彼の性格はこの騒ぎの前から私はむしろビジネス向きではと
思っていました。第2の人生の成功を心から祈っています。


断髪式1 (8).JPG

イタリア山庭園の家

  • 2011年5月13日 19:18

JR根岸線の石川町駅を降りて元町通りの
手前の急坂をフェリス女学院まで一気に上ると
旧外国人居留地の雰囲気が今でも残っている
山手本通りに出ます。

イタリア山庭園1.jpg


通りを左に折れると、エリスマン邸や外人墓地
港の見える丘公園など山手の中心地になりますが
先週の連休の一日、この右方向のイタリア山庭園にある
2つの洋館を訪ねました。

横浜山手に住宅や教会が建てられたのは明治の
初期からで、フェリスが現在地に校舎を建築して
生徒14人でスタートしたのは明治8年だそうです。


イタリア山庭園2.jpg


先ず見たのは「外交官の家」で、もともと内田定槌
という外交官が明治43年に渋谷・南平台に建てた家で
子孫が横浜市に寄贈し平成9年に移築・復元されました。
施主の海外暮らしが長かったこともありビクトリア風の
デザインで、国の重要文化財に指定されています。

内田が明治35年からニューヨーク総領事を務めた時
ポーツマス条約締結のために渡米した小村寿太郎の
支援にあたったというのは興味深いエピソードです。


イタリア山庭園3.jpg


イタリア山庭園4.jpg


設計者を調べてみるとガーディナーというアメリカ人で
立教中学(後の立教大学)の教師として来日し校長まで
務めた後、建築家に転進したという面白い経歴の持ち主でした。


イタリア山庭園5.jpg


もう一つは「ブラフ18番館」で、関東大震災後に
建てられた外国人の住宅です。平成3年まで山手教会の
司祭館として使われた後、横浜市に寄付されました。

こちらの方がもう少しモダンな感じですが、1階の
リビングからサンルームにかけての明るく解放的な空間は
まさに外国人住宅の特徴といえるでしょう。


イタリア山庭園6.jpg


イタリア山庭園7.jpg


今の日本の住宅は「和室」がほぼ消滅するなど洋風化の一途を
たどっていますが、その原点となっているのは明治・大正期に
建てられたこれらの住宅であり、横浜市がその保存に力を
入れていることは意義深いことです。

塩釜とその周辺

  • 2011年5月 6日 13:34

宮城県の塩釜に住んでいる家内の叔父と叔母は
3月の大震災のあと1週間近くたってやっと連絡が取れ
無事が確認されました。落ち着いた頃を見計らって
先週末に塩釜を訪れました。


塩釜 (1).jpg


仙台・石巻間を結ぶ仙石線は途中の東塩釜駅までで
叔父の家は2つ前の西塩釜駅で下車して5分ほど
塩釜湾に向ったところですが、高台のため難を逃れました。
駅の改札脇には「津波浸水予想図」という図が平成17年の日付で
貼ってあり、津波災害に対する注意はされていたようです。


塩釜9.jpg


車中から外を見ても、瓦屋根を修理している家が
時々ある程度で、家屋が大きく崩れているところは
叔父の家に到着するまでもほとんど見られません。

塩釜湾は地図で見ると松島湾の一部で、観光名所の
松島町は島々が防波堤となって、死者・行方不明者は4名。
また塩釜市は21名ですが松島湾の外側になる東松島市は
約2000名と地理的条件がたいへん明暗を分けています。

地震発生から10日経って電気、水道、ガスの順で復旧した
そうで"オール電化"の宣伝文句の「災害があっても電気が
一番早く復旧する」というのは本当でした。


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叔父の運転で塩釜を出てしばらくすると、崩壊した家屋や
水と泥と瓦礫に覆われた田畑などの光景が目前に広がります。
同じ場所でも全く無傷の家屋と基礎部分だけの家屋があり
何がこの明暗を分けたのか・・・人知の及ばないところで
やはりこの世の仕組みは作られているのか、と思う瞬間です。


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仙石線の野蒜駅は構内が泥に埋まり、早期の全線復旧が
困難なことを感じさせます。その脇の水路には、お寺の
建物の屋根部分が無残に横たわっていました。


塩釜1 (7).jpg


戦場の爆撃の跡のような光景を写真に撮るとき必ず感じた
"躊躇"を忘れることなく、いつもこの地域を意識して
その復興のために長期に渡りできることを実践していく。
それが幸運にも災害に遭遇してない側の努めだと確信しました。


塩釜1 (6).jpg

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