市川社長のブログ
富士通ゼネラル
- 2012年3月 9日 20:49
川崎から東海道線に乗ると品川駅の右側に見えてくる
3棟の高層オフィスが品川インターシティです。ここは旧国鉄の
操車場跡地が再開発され、平成10年に出来たものです。
昨日ここで富士通ゼネラルのフェアがありました。1万坪を
超える敷地にはオフィス、レストラン、ホール等があり、帰りがけに
緑地スペースを歩きましたが、短時間では全体を把握できない
ほどの広さです。
当社では現在エアコンは主にこの会社に発注していますが
その起源は昭和11年に東京・浅草で設立された八欧商店で
昭和28年には白黒テレビの製造を始め、33年には本社を
川崎に移転。ルームクーラーの製造を始めたのは昭和36年で
この頃からゼネラルの名称になり、私の小さい時の記憶にも
残っています。そして富士通と提携し、昭和60年に現社名に。
会場の入口にあるシェアマップを見るとカナダ、ニュージーランド
ギリシャ等7か国でエアコンシェアNO.1、36か国で5位以内です。
その生産はほとんど中国・上海工場で行っているとのこと。
自動的にフィルターの掃除をするエアコンを開発して10年が経ち
今ではフィルター自体が動く機能でホコリの取り残しがなくなり
依然として他社に差をつけているようです。
昨年は無線リモコンを発売。これだと1台で3つまでエアコンを
操作できて、本体にリモコンを向けなくてよく、リビングから
2階の子供部屋のオン・オフができるという。これは画期的で
当家でもすぐ使いたいくらいです。
また今春新発売の省エネタイプは、人がいなくなると運転を
自動的に停止し、戻ると再開する機能があり、価格的には2~3倍
するそうですが、エアコンもいよいよこのようなものが出てきたかと
感銘を受けました。私たちはエアコンというと、値段ばかり気に
しがちですが、目から鱗が落ちたような気がしました。
この後、丹羽啓勝氏のセミナーがあり「半径500mのエリアを深耕
すればリフォームショップは必ず成り立つ」という、これからこの分野を
伸ばしたい当社には大変ヒントになる話しを聞くことができて
この日得られた色々な情報を社内で共有したいと思います。
世界らん展
- 2012年2月28日 22:12
私の属するロータリークラブに今年の初め入会した
都倉八重子さんは、宮崎台の都倉生花店の3代目です。
彼女のお嬢さんは一昨年、ロータリーの青少年交換留学生に選ばれ
1年間ドイツに滞在し、昨年の8月には母娘で成田空港に
ブラジルからの留学生、ガブリエル君を迎えに行ってくれました。
都倉さんがお花の世界では有名な人らしい、ということが
分ったのは「IKEBANA世界遺産クロアチア・ドゥブロヴニク」
というお花の写真集をいただいてからです。
「アドリア海の真珠」と讃えられるドゥブロヴニクで
都倉さんは2006年の1週間、オランダから取り寄せたお花を
石造りの街に活け続け、写真家・溝江俊介氏とのコラボで
素晴らしい写真集を制作しました。
そのような本を出版したのも都倉さんの輝かしい実績に
基づくもので、世界らん展日本大賞の「フラワーデザインの部」で
1997~99年の3年連続最優秀賞を受賞していたのです。
世界らん展は1991年から東京ドームで開催されている
最大級の国際蘭展で、今回も18日から始まり一昨日の
最終日に都倉さんが出演するので見に行きました。
まず都倉さんが担当したキャノンのブースのメイン装飾を
見たあと、胡蝶蘭のトンネルをくぐると日本大賞の受賞作品が
ありました。その先の假屋崎省吾とニコライ・バーグマンの
展示を見ながらイベントステージへ。
2時半からここで都倉さんと若手のデザイナーによる
フラワーパフォーマンスが始まりました。
司会者と軽妙なトークを交えながら、都倉さんは
リラックスした感じでバック、窓のある黒いボード、ブーケの
3作品を約30分で次々と仕上げました。
都倉さんはこれだけのイベントでもあまり準備をしないで
その場の感覚でお花を活けていくそうで、本当は「大家」なのに
アシスタントもつけず、普段の飾り気のない人柄がそのまま
出ているような素敵なパフォーマンスでした。
コンセプトマンション
- 2012年2月26日 12:32
たまたま昨日は、2つのコンセプトマンションの
現場見学会がありました。まず当社施工、一括借り上げの
中原区宮内のペットケアマンション「レモンハウスRS」です。
場所は多摩川べりで素晴らしい環境ですが
武蔵中原駅からは徒歩20分の立地です。初めに
この地の企画を依頼されたとき、駅からの距離を
考えるとペットケアマンションしかないと思いました。
というのは、そこから5,6分離れたところで
当社のぺットケアマンションの第1号「センチュリー
等々力緑地」が成功裏に完成したところだったからです。
エントランスには専用足洗い場や汚物ダスト、室内は
滑りにくい床材を使用、壁にはオゾン脱臭機を設置。
多摩川を見下ろせる屋上はドッグランとして利用ができて
3F建8戸と小規模ですが必要な機能はすべて揃っています。
もう一つは東京・王子の越野建設さんの設計、施工の
3F建1K14戸の「音楽家向けマンション」です。
まず玄関ドアは一般の仕様で台所から居室に入るドアは
簡易防音タイプで、ベランダに面するサッシは二重に
なっていて、その横には遮音性能が高いロスナイ換気扇
(排気の熱で外気を暖めて取り込む構造)が付いています。
音楽マンションというと「完全防音」をイメージ
しがちですが、そこまでコストはかけていません。
一般的な建物より防音に配慮していますが、隣の部屋に
「音が聞こえてもいい」というところが前提なのです。
既に全戸申込みが入り、音大生は5人であとは社会人。
(音大生は4人がグランドピアノ持ち込みとのこと)
つまり正確には「音楽愛好家向け」マンションなのです。
愛好家同士なら隣から漏れる音が決して「騒音」と感じない
ところがポイント。案内してくれた吉井部長はこれを
「お互いさま防音」とうまい表現をしていました。
同じ趣味を持つ者同士が入居することによって
より快適な生活を送ることができる仕組み、これが
本来の「コンセプトマンション」だということを
あらためて認識しました。
留学生と文化交流
- 2012年2月22日 20:51
今日、川崎市内の全ロータリークラブの
会合(Inter-City Meeting)がありました。
テーマは「留学生と文化交流」です。
ロータリーの青少年の文化交流プログラムは
主に東南アジアの大学院生を支援する米山奨学制度と
外国の高校生を1年間受入れ、相手国に日本の高校生を
留学させる青少年交換プログラムの2つです。
当クラブはたまたま昨年8月よりブラジルの高校生
ガブリエルを受け入れたので、当家の次にホストファミリーを
務めた小泉さんがパネラーの一人になりました。
小泉さんは、コミュニケーションには語学力が不可欠で
留学生に対する日本語教育の強化と、何かの時のために
母国語が堪能な人が近くにいることの必要性を訴えました。
別のパネラーの牛山さんは、自分がアメリカの法律事務所に
勤務していたとき、所長が日本の女子高校生を受け入れたが
うまくいかず、週末だけずっとその人が預かったことがあり
4,5年前に突然その女の子から連絡があって聞くと、その後
アメリカの大学に入り、アメリカ人と結婚して幸せに
暮らしているとの報告があったそうです。
次にイラン、中国、ベトナムから来た米山奨学生3人も
パネラーとして討論に参加しました。みんな日本語がとても
流暢なのにはビックリ。私はどうしてもその秘訣が知りたくて
終了後の懇親会でイランから来たシャフィさんに聞いてみました。
彼女はまず17歳で日本の高校に留学し、自国の大学を出た後
慶応大学に編入し大学院まで進み、そこで米山奨学金を得ました。
昨年卒業した後、大学に残り研究員として国家プロジェクト
でもある液晶テレビの研究に取り組んでいるとのこと。
彼女と話していると同年代の日本人より言葉が正確で
表現力が豊かなのには驚きます。他国に学んで自己を成長させて
その国のための仕事をしていることは大変立派だと思います。
文教堂書店
- 2012年2月15日 09:33
「島崎文教堂」といえば溝の口を中心に
南武線沿線にいくつか店舗がある書店でしたが
気が付くと、郊外でも見受けられるようになり
名前が「文教堂書店」と少し変わっていました。
文教堂は明治31年(1898年)の創業で今年114年目。
創業者は今の嶋崎欽也相談役のおじいさんです。
私が参加している創新塾の次の課題は100年企業の探究で
昨日溝の口の文教堂本社に嶋崎相談役を訪ねました。
昭和24年に相談役のお父さんが法人化し株式会社
嶋崎文教堂を設立。しかし昭和40年頃には一緒にやっていた
お兄さんも他の事業に乗り出し本屋は存亡の危機に瀕します。
昭和44年に支払い滞納のため本の出荷を止められそうになり
当時静岡銀行に勤務していた相談役が母親に依頼されて
一緒に交渉に行き、そこで「あなたがやるのなら引き続き出す」
と言われ仕方なく銀行を退職し、即社長に就任したそうです。
休みは元旦のみ、という猛奮闘ぶりで業績は上向いて
昭和48年には溝の口に2店舗目を出すまでになりました。
ある人から相模原に土地があり、有隣堂に話したら断られたが
お宅で出店しないか、と言われて昭和55年に出したのが
郊外型店舗の第1号でした。
本は多く売ったところから優先的に供給されるそうで
多店舗化で売上が伸びるとその分、売れ筋の本が入荷できて
更に売れるという好循環になり、その後急激に伸びて
平成6年にはジャスダック店頭上場を果たしました。
店舗は200を超え、売上も500億円に達したのですが
リーマンショックで資金繰りが悪くなり、同窓で親しかった
大日本印刷の社長に依頼して新株を引き受けてもらったとのこと。
1兆円を超す売上げの大日本印刷からは役員が一人来ただけで
経営には口を出さず、今ご子息が社長に就任しています。
一時書店売上げで日本一になりましたが、今はホビーのシェアが
NO.1で今後はこの分野を伸ばしたい、との事でした。
嶋崎さんは朴訥な人柄で、一代で家業を上場させたという感じは
受けないのですが、書店のチェーン展開では日本の先駆者で
相模原への出店の決断が今に至っている原点だと思いました。
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