市川社長のブログ
こどもの国
- 2013年5月15日 09:08
私が初めて「こどもの国」行ったのは中学生の時
昭和41~2年頃です。横浜市と町田市にまたがる
多摩丘陵の起伏に富んだ敷地は約100万㎡あり
皇太子のご成婚の記念事業として昭和40年の
子供の日にオープンしました。
広大な敷地には乗り物中心の遊園地とは一味違った
自分で体を動かして楽しむものがたくさんありました。
ドラム缶のいかだに乗れる湖や屋外アイススケート場。
今はない子供自動車教習所ではまず学科の講義があり
ペーパーテストを受けて、電気自動車?で隣に教官を
乗せてコースを一周し、合格すると「こどもの国免許証」
が交付され、教習所の疑似体験ができたのでした。
それから歳月が流れ、娘2人が小学校に上がった頃
再び訪れるようになりました。ある時私の弟と妹の家族も
一緒に行ったことがあり、娘、甥、姪の6人で写真を撮り
良く撮れたので焼き増しして各家庭に配布しました。
さらに今月4日私は還暦を迎え、姪からお祝いをしたい
という話があったとき、私は「皆でこどもの国へ行って
また皆で写真を撮ろう」という提案をしました。
誕生日から一週間後の当日、出かける直前に古いアルバムを
調べたら、6人の写真を撮ったのは1993年5月4日
つまり20年前の私の誕生日だったことが分かったのです!
写真では一番小さい妹の長女は4月から大学院生になり
授業の途中から駆けつけました。昼前から小雨が降り出し
たので、屋根のある休憩所を探しまず昼食を取って
20年前の撮影地点と思われる牧場に向いました。
奥が小高くなっている牧草地、ここに間違いありません。
6人は以前と同じ順に並んで座り、無事撮影が終わりました。
この次皆でここで集合写真が撮れるのは5年後?10年後?
と想いを巡らせながら、思い出の場所を後にしました。
富士屋ホテル
- 2013年5月 6日 13:20
箱根・宮ノ下の富士屋ホテル。私は中学生のころ
ここに家族旅行で来て泊ったことがありました。その時
日本人は少数でお客のほとんどが外国人だった記憶が
残っていました。(今は逆で外国人は2,3組だけです)
それから40数年の時が流れ、この連休中にやっと2度目の
宿泊が実現しました。エントランスのある本館は明治24年築で
フロントロビー、客室に至るまで100年前の空気がそのまま
保存されていて、現代の日本ではまず味わえない雰囲気です。
私は以前泊ったときのリーフレットを持っていて
それにはホテルのレジスターブックには世界各国
からのお客さんの名前が記されている旨の記述があります。
その時の私の家族の名前も載っているのではとコンシェルジュの
織田さんに資料室にある昭和42~43年の8月分を調べて
もらいましたが見当たりません。そのブックを実際に
見せてもらったらほとんどが外国人の署名でした。
これは宿泊カードとは別のサイン帳なので、全員が書く訳では
ありませんが、外国人が大半という私の記憶は裏付けられました。
リーフレットには私の母の字で「予約係 秋山様」と書かれていて
織田さんに尋ねると「それは退職した秋山元副社長でしょう」との答え。
入社31年という織田さんにどうして昔は外国人が大半だったか
聞くと当時外国人向けのホテルは、横浜のホテルニューグランド
日光金谷ホテルや軽井沢万平ホテルなど限られていたから
ではないか、とのことでした。
明治11年に開業後、一時は道路向かいの奈良屋旅館と協定を結び
奈良屋旅館は日本人専用、富士屋ホテルは外国人専用だった時期も
ありましたが、現在は半ば"日本人専用"になっているのは
時代の流れでしょうか。
奈良屋旅館は残念ながら2001年に閉館され、現在はエクシブの
リゾート施設になっていますが、その原因を調べてみたら相続税と
財産分与だった、とのことでこれには驚きました。
富士屋ホテルも実は創業家の山口一族に争いが起こり
昭和40年頃に国際興業の傘下に入ったのです。それ故明治の
建物が残り、私たちが今でも宿泊できるとも言えるのです。
個人が古い良い伝統を承継できない今の税制は、オーバーに言えば
貴重な日本文化を消滅させるもので、残念と言うしかありません。
コンクリート祭り
- 2013年4月30日 14:22
当社では知的障害者のNPOの支援バザーを
平成21年と23年に実施しましたが、今年は子供たちに
建築の一端、特にコンクリートに関するものに
触れ合ってもらう「コンクリート祭り」を開催しました。
主な内容はコンクリートに触れて手形を作ること
コンクリートミキサー車を含む建設重機に乗ること
4種の職人さんに扮する社員を見つけるスタンプラリー
そしてお餅やフランクフルトなどの模擬店です。
集客方法は周囲の5つの小学校でチラシを配布して
もらったのですが、それだけで本当に来てくれるのか
という不安は、開始直前に見事に吹き飛ばされました。
9時半くらいから人が集ってきたので、定刻の10時前に
開場するとドッとたくさんの人が一度に会場になだれ込み
場所が狭すぎたかと一時は思うほどの混雑ぶりでした。
子供たちの目的はスタンプラリーの景品のコンクリート
ミキサー車のミニカーだったようで用意した100台は
あっという間に無くなり、慌てて景品をお菓子に変え
スタンプラリーの台紙を増刷しました。
スタンプは型枠、鉄筋、設備、電気の4種の職人に扮した
社員を見つけて押してもらうのですが、子供たちに"発見"
され、台紙に押印する様子は中々ほほ笑ましいものです。
コンクリートの手形も100人分がすぐ無くなって
これも受け皿を買いに行って30人分を何とか集めて
追加に対応しました。
模擬店はフランクフルトが初めに売り切れて、逆にワタ飴は
1つ作るのに3分位かかりだいぶ行列させてしまいました。
私たちが普段取り扱っているものに子供たちが触れて
喜んでくれるのはたいへん嬉しいことで、参加した社員もとても
楽しそうな様子でした。次回はより良い内容にしたいと思います。
ヤマトのDNA
- 2013年4月24日 18:55
先日、城南友の会の講演会に出席しました。
講師はヤマトホールディングスの木川眞社長です。
ヤマト運輸が宅急便を始めたのは1976年でそれまで
民間で個人の荷物を翌日に配達することを考えた人は
いませんでした。それが現在ヤマト運輸の営業拠点は
国内4000か所で郵便局の2800か所を上回っています。
今でも年5%伸びている宅配事業なのに、少子化により
将来成長は止まるものと予測して、すでに新たな方向を模索
している。順調な時に舵を切る、というのは中々できないことです。
その一つが「宅配から個配へ」。昼間行留守の家が多く
平均2割の持ち帰りがある。そこで前日夕方までに
配達予定をメールし、日時や場所を変更できるようする。
また東京から名古屋、大阪圏は当日配達をしていく。
これは増える通販商品への対応と、震災後企業は在庫を
各地に分散させ、配達時間の短縮が望まれているからです。
さらに海外展開を加速させ、沖縄・那覇に拠点を作り
上海、香港、バンコクなどは翌日配達を目標にする。
これには驚きました。「同業他社を圧倒的に差別化する」
という目標は文句なく実現されるでしょう。
ヤマトの震災復興への取組みは素晴らしく、昨年度宅急便
1個につき10円の寄付を行い、総額が142億円になりました。
これは会社全体の利益の4割に当たるそうで、これほど
復興に金銭的な貢献をした企業を私は知りません。
最後に地域戦略については6万人のドライバーが全国で
動いているというインフラを開放する、例えば一人暮らしの
高齢者の安否確認なども行なっていくそうです。
今後は利益の一部を「施す」従来のCSRから、企業と
地域社会が共同で価値を創出するCSV型で行う。
木川社長の話を聞いて「サービスが先、利益があと」
というヤマトのDNAが見事に受け継がれていることを知り
私はたいへん感銘を受けました。
しつけ教室
- 2013年4月22日 11:57
当社が運営・管理しているペットケアマンション
「センチュリー等々力緑地」のエントランスで
昨日初めての「しつけ教室」が開かれました。
トレーナーは駒沢公園前にペットのための
コンサルティング店舗を持つ袴田恭司さんで
この日「生徒」になったのは4匹のワンちゃんです。
まず参加者が困っていることを聞くと、チャイムが鳴ると
吠えてしまうということで、それは自分のテリトリーを
守ろうとする行動なので、「ダメ!」と叱っても言葉が
分からず逆に褒められていると取ってしまう。まず
そこはテリトリー外ということを分からす必要があるとのこと。
その訓練がエントランスのメールボックスの後ろの狭い
スペースを使って始まりました。まずトレーナー助手2人が
仁王立ちになって犬を奥まで追い込み、少しずつ離れていき
犬が戻ると再び奥へ追い込むと、そこに留まるようになります。
その後「おいで!」と声をかけると喜んで飛んでくるので
撫でて褒めてやります。これを繰り返すことで
自分のテリトリーを認識し、誰が主人か分かるのです。
犬はある集団の中での上下関係を自然に判断しますが
自分を規制する人を一番上と判断するそうです。
次は散歩の練習です。こつは自分より前を歩かせては
いけないこと。リードを右手で持って左手は空けておいて
良く出来たときに撫でて褒めてやります。
もし自分より前に出たら引っ張って戻すのでなく
くるっと歩く方向を変えて後ろに従わせる形にします。
これを繰り返すと不思議なことにトレーナーより
前を歩かないようになるのです!
私は短時間でペットが変わる様子を目の当たりにして
とても驚きました。これを多くのペット愛好家に体験して
頂きたく、この催しをこれからも行っていきたいと思いました。
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