市川社長のブログ
三月の京都
- 2014年3月20日 09:09
当社では昨年、賃金制度の大きな改変を行ない
その指導をお願いしたコンサル会社の本社がある
京都を先週末初めて訪ねて社長にお会いしました。
会社は弁慶と牛若丸が出会ったと言われる五条大橋の
たもとにあり、清水寺の参道まで約1㎞という好立地!
その日の夕方、おそらく修学旅行以来の清水寺を散策。
私は清水寺というと小津安二郎監督の名作「晩春」で
笠智衆と原節子の親子が娘の結婚前に一緒に旅行をして
ここを訪れる印象的な1シーンを思い出します。
宿は八坂神社の近くに取り、ちょうどその日から
始まった東山地区の花灯路の夜景を楽しみました。
翌朝早く、再び同じところを歩くと打って変わって
人気のない石塀小路に何とも言えない情緒を感じました。
秀吉の冥福を祈るため建立した高台寺は宿からすぐで
その庭園を散策したあと、円山公園まで歩くと「長楽館」
という大きな洋館が。明治の煙草王、村井吉兵衛の別邸で
明治42年築のこの館は京都の迎賓館として英国ウェールズ
皇太子など当時の要人を迎えたそうです。
設計は立教大学本館などを設計した米国人建築家の
ガーディナーで、施工は現在の清水建設。食堂だった
ところはフレンチレストランとなり、旧ビリヤード室は
カフェに変わり、私たちはそこでお茶を飲みました。
ロビーに置いてあるピアノは1955年ウィーン製の
ベーゼンドルファーと、音楽好きには興味が尽きません。
和洋を問わず、ルネサンス風の大邸宅もきちんと保存
されている京都の魅力を改めて認識しました。
その後行った知恩院は特に好な寺で、高さ24mの
三門の大きな柱を通して本堂に向う急勾配の石段を望む
遠近感の素晴らしさはいつまで見ていても飽きません。
知恩院を後にして二条城、三十三間堂と廻って
今回のつかの間の京都の旅を終えました。
算数ドリル
- 2014年2月25日 20:52
先週のたちばな経済研修会の講師は川崎フロンターレ
社長の武田信平さんでした。フロンターレは川崎市内の
小・中学校で体育の授業に選手が出向き、スポーツ指導を
継続して行っていることは以前から聞いていました。
更にその活動が川崎から400㎞離れた岩手県陸前高田市
にまで及んでいたことは、この日初めて知りました。
そのきっかけは「算数ドリル」の寄付だったそうです。
フロンターレでは数年前、スポーツ以外で小学生にできる
貢献がないか考えていたとき、イングランドの名門チーム
アーセナルが選手の登場する教科書を作って地元の学校に
配布していることを知りました。
川崎市校長会に相談したところ、上丸子小学校の橋本先生
の協力が得られドリル作成委員会ができて算数ドリルが完成。
2009年に上丸子小の6年生に配布しましたが、それを
聞いた他校からウチもほしいという声が上がったのです。
その年の11月フロンターレはナビスコカップの決勝戦で敗退。
表彰式で高円宮様が掛けたメダルを選手が外したことで
全国から非難が殺到し、準優勝の賞金5,000万円を辞退しよう
としたが許されず、これを地域の社会奉仕に使いました。
川崎市内の幼稚園から高校までW杯の公式ボールを贈り
各区の図書館に本とラックを寄贈し、加えて川崎の全小学校に
先に作った算数ドリルを増刷して配布したのです。
そして震災後、陸前高田市の先生から震災で学校教材が
不足しているとの連絡を受けた市民がフロンターレに頼んで
このドリル800部が9校の小学校に寄付されました。
これが縁でフロンターレは東北で復興支援を始め、3年前より
子供たちが川崎へ「修学旅行」に来るまでになったのです。
市内唯一の春日山部屋でちゃんこを食べ、等々力競技場での
試合でフロンターレを応援し、子供たちはチームとの絆をさらに
深めて帰ったことでしょう。
この日は地元チームの素晴らしいお話を聞きました。
出前授業
- 2014年2月15日 16:00
当社はかつて小、中学校の工事を毎年のように
施工していた時代がありましたが、「箱物」を作るだけ
ではなく将来を担う子供たちと触れ合う機会を作ろうと
十数年前から夏休み工作教室などを開催して来ました。
内装デザイン等をお願いしている木村倫香さんの
所属している日本商環境設計家協会(JCD)が小学校で
デザイン体験の「出前授業」を行っていると聞いて大変
興味を持ち、昨日行われた杉並区立浜田山小学校での
「出前授業」に私も参加させていただきました。
JCDのSodaという委員会がこのデザインの楽しさを
子供たちに伝える活動をしているのです。
SodaはSeed of Design Awardの略で"デザインの芽を
育てる"という意味を込めているそうです。
まず委員長の新藤さんから様々な材料を使って
"空間に魔法をかける"のがデザイン、という説明があり
背景の色や照明を変えると見え方がどう変わるかを実演。
その後6年生の2クラスが6人ずつ10班に分かれ
「スーパーSPA浜田山店」など予め色々な名前を
つけたお店を、約2時間で用意されたタイル、床材
布地などを使って店舗模型を作っていきます。
各班には一人ずつSodaの委員が付き、アドバイスや
固い材料などをカットするお手伝いをするのですが
私は始めて1時間経った状況で、あと1時間で本当に
できるのかと心配しました。
お昼になり私も一緒に給食を食べたあと午後は作品発表の
時間です。そこで行なわれた各々のプレゼンは想像以上で
子供たちが本来持っている創造力にあらためて感銘しました。
専門家が子供と関わり合いを持つことで、彼らの感性を
伸ばし、デザインに興味を持つ子が現れれば職業が
社会貢献にもつながり、とても素敵なことです。
今度、当社が施工した小学校(私の母校)へ行って
この出前授業を取り入れるよう話をしてくるつもりです。
市役所本庁舎
- 2014年1月21日 19:25
先週末川崎市役所の本庁舎を訪れ、昼休みを利用して
福田市長と談笑しました。メンバーは福田さんの後援会長
はじめ市長選のずっと前から彼を支えてきた人達です。
重厚なエントランスから2階へ上り、会議室で昼食を取って
となりの市長応接室へ。私は阿部市長のとき、ロータリーの
GSEプログラムで来日したアメリカチームと2010年に、
南アフリカチームと2012年に一緒にこの部屋を訪れました。
一番奥の市長執務室には歴代市長の写真が掲げられていて
その人たちと比べると戦後5人目の市長となる福田さんは
41歳、まるで息子のような年代です。
この本庁舎が出来たのは昭和13年で設計は川崎市建築課の
元田稔という人で、施工は直喜鐵工所。当社の会長によると
川崎の渡辺組がその下請けをしたそうです。
戦前の庁舎と言えば神奈川県庁舎が有名ですが
その竣工は川崎の10年前の昭和3年。それにしては
作風がだいぶ違い、川崎市庁舎は装飾的なものがなく
当時としてはかなりモダンな建物だったのでしょう。
戦時中は迷彩色を施され、地上40mの時計塔は空襲監視塔
として利用され、駅周辺は全滅に近く空襲を受けたそうで
その中で市庁舎は焼失を免れたのです。そして昭和34年には
現在の4階建てに増築されています。
いま、竣工から75年を経た本庁舎を建て替えようという
計画があります。理由は現在の耐震基準を満たしてないこと。
試算では耐震補強をした場合には60億円、建て替えた場合は
仮庁舎の費用も含め400億円掛るが、その後50年間の維持費用は
両方とも約1000億円で差が無くなる、とのこと。
この案に対し市民からパブリックコメントを求める締切りの昨日
私は「戦火をくぐり抜けたこの建物は市民の誇りであり、貴重な
庁舎を建て替えることに反対する」旨の意見書を提出しました。
淡島ホテル
- 2014年1月 7日 19:45
暮れも押し詰まった28日、数年ぶりに沼津にある
淡島ホテルに行ってきました。当社がこのホテルの会員に
なってからもう20年になります。
このホテルは当時、旧東京相和銀行がバックとなり
西伊豆の駿河湾に浮かぶ周囲2.5㎞の無人島「淡島」に
ヨーロッパのリゾート地にあるようなホテルを模して
日本にはないような会員制ホテルを建てたのでした。
この銀行の会長だった長田庄一氏と当社の会長がたまたま
戦友という縁で銀行とも取引が始まり、淡島ホテルの会員権も
購入することになったのです。
宿泊者はまず陸地側のサロンの前に車を止め、ゲストルーム
で船が来るのを待ちます。到着後ベルボーイの案内で乗船し
"数分の航海"に出るのですが、初めて行ったときにはここから
日常から脱した別世界への期待感が高まるのを感じました。
ホテルのやや狭い入口を抜け、大きな天窓のある
エントランスホールに出るとピアノの音が聞こえました。
その奥の緩やかな階段の途中にある小さなステージからです。
さらに階段を上がったところはギャラリーで、ゴーギャンや
ロダンの作品が無造作に置かれているのですが、私が初めに
行った頃、ゴッホの初期の絵画があったのには驚きました。
部屋数は60室ですべてスイートルーム。全室バルコニー付きで
そこから富士山が見えます。クロゼットには個人に合うサイズの室内履が
用意され、何よりも12歳未満の来館を断っているのが気に入っています。
銀行が破綻した後スタッフの数が減って、前回訪れたときは
サービスの質がかなり低下していました。当社ではお客様の
ご招待も多いので東京の営業所へ苦情を言いました。そのせいか?
今回は以前のようなサービスの不備は感じられず、レストランでの
食事も満足のいくものでした。
今ではネットで誰でも予約できるホテルになり、会員としては
文句の一つも言いたいところですが、子供の来館制限など
今の雰囲気を保ってくれれば、よしとしなければならないでしょう。
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