市川社長のブログ
青山界隈
- 2014年8月11日 20:07
先週末、義弟のお見舞いに御茶ノ水まで行ったので
一度行きたいと思っていた南青山の岡本太郎記念館まで
足を伸ばしました。
岡本太郎は母親・かの子の実家のある川崎市二子で
生まれましたが、その後この記念館のある青山で育ち
没する平成8年までここに住み、活動していました。
奥の住宅部分の設計は高名な坂倉準三とのことで
展示室部分は記念館を作るとき増築したようです。
入館するとき係りが「この展示室内で写真は・・・」と
言い始めたので写真はダメか、と早とちりしたら「自由に
撮ってかまいません」と続けたので"さすがは岡本太郎"
と思いました。国内で写真OKの美術館は記憶にありません。
ここにはあたかも最近まで使っていたようなアトリエが
そのまま残されていて、整然とした川崎市の岡本美術館と比べ
太郎をより身近に感じることができました。
この記念館は骨董通りから少し入ったところにありますが
表参道の通りとの間にもブランドショップ、結婚式場、家賃が相当
高そうな賃貸住宅などがあり、見て飽きることがありません。
最後に青山通りに出てスパイラルカフェでお茶を飲みましたが
客席を囲むようなギャラリーがユニークで縁日が開かれてました。
そして1日置いた今日、再び表参道の駅を降りました。いま
当社の新サービス推進のコンサルをお願いしている北青山の
F-INCさんの事務所で打合せがあったからです。
会社は改築された旧紀ノ国屋のビルのうしろ側で、私たちは
近くで昼食を取ってから午後の打合せに臨みました。場所が
青山だといつもと違う発想が生まれるのではという期待を込めて。
この推進のため編成されたチームの7人は、会社周辺に人々が集い
さらに地域情報を発信していくという他にないような新たなサービス
形態を創造していこうと燃えています。
ポーターズペイント
- 2014年7月16日 18:39
いま住宅でもマンションでも当社もそうですが
壁に貼る材料は99%がビニールクロスです。
古来日本では壁の仕上げは土壁や漆喰だったのが
いつからか施工の簡単なクロス貼りに変わりました。
また欧米でよく見られるペンキ塗りはあまり見ない
だけでなく、現場では塗装の工程を極力無くすため
ドアや枠も塩ビ系のシート貼りが普通になっています。
何年か前に当社が施工したT邸は設計者の進言で
建て主が寝室を自分で塗ることになり、溝の口でメーカーの
指導を受けて家族でペンキを塗ったことがありました。
また最近壁の色を入居者が自由に選んだり塗ったりできる
建物が徐々に増えてきています。T邸で使われたポーターズ
ペイントという塗料はペンキ特有の匂いがなくて使い易いと
いう評判で、私は実際に見てみたいと思っていました。
溝の口駅を通り過ぎて246号線をくぐると右側に倉庫風の
オフィス兼工場があります。ここがオーストラリア産の塗料
ポーターズペイントの日本の総代理店の㈱NENGO本社で
以前は断熱・耐火被覆の施工会社で当社も工事を依頼ていました。
この建物に入るとすぐ天井や壁の鮮やかなペイントが目に
飛び込み、その豊かな色彩に魅了されました。これに比べると
メリハリのないクロス貼りの何と味気ないことか・・・。
社長からお話を聞くと、ポーターズペイントは基本的には
お客さん直に塗料を販売するか、自社で施工を請け負うかの
どちらかで、塗装店に材料だけの販売はしないとのことです。
またこのほか不動産やリノベーション事業も広く展開し
借り手と一緒に部屋を作る「仕立てる賃貸」という事業を
昨年より推進していることを聞き、まさに当社が考えている
ことの一歩先を行く企業であり、たいへん学ぶことの多い
時間を過ごしました。
中目黒界隈
- 2014年6月24日 09:47
先週末、日本橋での知人の彫刻家の個展へ行く途中
用事があり東横線の中目黒でいったん下車しました。
私はこの駅には特別な感慨を持っています。
48年前の1966年4月から6年間、毎朝この駅で下り
バスに乗り換え学校に通ったのです。そして当社に入る
直前まで勤務していた会社もここが最寄駅でした。
山手通りに覆いかぶさるようにホームがある構造は
当時のままで、ただ山手通りが拡幅工事で広くなり、
ホームから眺める風景が少し変ったように感じました。
さらに最近横浜寄りにもう一つ改札口が出来ていました。
駅を背にして山手通りを右に入るとすぐ目黒川に
ぶつかります。かつては台風のときなど水位が上がり
架っている橋ギリギリまでになったのを記憶しています。
今では川の両サイドには、アパレルやカフェなどしゃれた
お店が軒を連ねていますが、私が以前の会社にいたときは
「ヨハン」というケーキ屋があったくらいだと思います。
また知人の建築家の妹さんがこの道沿いに、きもののお店を
最近開いたことを聞いていたので立ち寄ってみましたが、さすが
置いてある浴衣や和風小物、店主の出で立ちもハイセンスでした。
駅に戻るとき代官山側の丘の上にそびえ立つ超高級賃貸
マンション「キングスホームズ代官山」が見えました。
3,000坪の敷地には屋外プールまであり、バブル以前の
1975年にこれだけのものを建てたのはやはり驚きです。
そびえると言えば駅の反対側にある旧千代田生命本社。
2000年に会社が破綻し今は目黒区役所になっているこの建物は
私がこの駅を利用し始めた1966年に村野藤吾の設計で完成。
この建物が掲載された雑誌が家にあった気がして本箱を探すと
当時の「新建築」が出てきました。今回初めて訪れてみて、その
独特のデザイン性は50年近い年月を経ても保たれ、一時代を
代表する事務所建築が現存していることに安堵しました。
成功の秘訣
- 2014年6月10日 15:24
ロサンゼルス・オリンピックの体操の金メダリスト、
具志堅幸司さんの話を聞く機会がありました。冒頭
「成功の秘訣はイメージを具体的に想い浮かべること」と
こんな話から入りました。
前日の失敗で5位で臨んだロス五輪の決勝の日、会場へ
向うバスの中でこれから自分が演じる種目すべてが頭の中で
流れ、優勝を勝ち取りそれに感激して涙しているところで
我に返り、決勝が始まるのはこれからなのだと思ったそうです。
体操を始めたきっかけは小学6年のとき見たメキシコ五輪。
大阪の清風高校に入学、体操部に入ったとき先生にうまく
乗せられ?1年生全員でインターハイ優勝の目標を設定。
それから朝会うと「優勝!」、帰るとき「インターハイ!」
この挨拶を3年間続けて、見事目標を達成したそうです。
物事を成し遂げるにはこれ位徹底しなければいけない・・・
次にイチロー選手が小学校6年のとき「僕の夢はプロ野球の
一流選手になることです・・・中日か西武に入り、契約金は
1億以上・・・」と書いた作文が紹介されました。
具志堅さんはまず夢を書くことが第一。次に指導者はそれを
伝えること。言い方を変え、場所を変え、繰り返し言い続ける。
「どう言ったか」ではなく「どう伝わったか」が大切、と強調。
私も描いている夢を実現させるためには、まずそれを具体化
したものを書き、繰り返しそれを話して伝えなければいけない
と目から鱗が落ちる思いでした。
彼は大学3年のとき練習中に足首を骨折、体操はもうできない
と言われたのを克服。さらにその後アキレス腱を切ったときは
体操はやめようと思ったが、同僚や恩師の励ましで思い直し
イメージトレーニングを始めて再度復活。「ピンチの時本気になり、
本気になれば何かが変わる」とふり返りました。
最後に、義足でハイジャンプをする選手が映し出されました。
高校のとき交通事故で右足を失ったその人は「失ったものは
右足だけ。得られたものはもっと多い」と言ったそうです。
私たちは何と恵まれていて、これからできることが多い
のでしょうか!見方を変えれば自分を変えられるのです!
「あいばこ」
- 2014年5月25日 18:00
当社がコミュニティ・スペース「らくらす」を開設後
しばらくして、都下東村山の相羽建設という会社が
「あいばこ」という同様の施設を持ち、活用している
ことをネットで知りました。
先週ある雑誌社主催でその見学会があり参加しました。
この会社は社員40名(パート含)で住宅とリフォーム
のほか、戸建て分譲事業も行っています。
東村山駅に集合した私たちは、まず50年の定期借地権
分譲地へ。もともと300坪の土地に住んでいた地主が
自宅を建て替えて残りを6区画に分けたものを相場建設が
上物を建て分譲、一画をモデルハウスとして残しています。
1階のリビングにはまきストーブがあり、2階の寝室は
間仕切りがなく、家具で空間を分けています。これは
同じ床面積なら廊下が無い分スペースは広くなるわけで
当社の設計にこれを活かせないかと思いました。
次に別のモデルハウス2棟を見学。一つは5年前のものを
リニューアルした建物。ここの壁面は塗装、左官、そして
和紙ととても多彩です。私は当社の建物の壁が一様に白い
のに不満を持っていたので、これはとても気に入りました。
もう一つは建築家の設計した住宅で、洋風の中に
「和」を基調にしっとりとした落ち着いた情感を感じさせ
もし私が住むならこういう住宅がいい、と思いました。
最後にマンションの1階を使った「あいばこ」を見学。
「らくらす」同じようですが違うのは大工が制作した様々な
家具が置いてあること、子供の習い事やヨガ・料理教室
など1年に100回以上イベントが開かれていることです。
"つながる人すべての暮らしを豊かにする"というこの
会社の経営理念を実践する場が「あいばこ」だったのです。
「らくらす」の目的も同様なのですが、その達成のために
私たちのやるべきことはたくさん残されていると感じました。
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