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称名寺

  • 2013年7月28日 15:14

南武線の鹿島田駅を降りて商店街を左に進み
府中街道の手前を右に折れてしばらくすると
称名寺の立派な山門が見えてきます。
浄土真宗大谷派のこの寺院の創建は鎌倉時代で
本多和さんは第30代のご住職に当ります。


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称名寺1.jpg
             本   堂

当社と称名寺との関係は昭和50年に施工した
庫裡の改築工事から始まり、それから今まで数度に
渡って増築や修繕工事をさせていただいています。
この度も、庫裡の2階の部屋の間取りの変更と
外部の下見板の張り替え工事を行いました。

称名寺は赤穂浪士と縁の深いお寺としても
知られており、所蔵している討ち入り後の四十七士の
姿を描いた「紙本着色四十七士像」は昭和60年に
川崎市の重要歴史記念物に指定されています。


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             庫   裡

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称名寺の門前に住んでいた軽部五兵衛という百姓は
鉄砲洲にあった江戸赤穂藩の上屋敷に出かけて
屋敷内から出た下肥をもらっていました。

「松の廊下」の刃傷事件で江戸屋敷が明け渡しに
なったあと、赤穂浪士の1人の富森助右衛門という人が
その縁で軽部五兵衛の敷地内に寓居を建てたそうです。

京都を発った大石内蔵助一行は討ち入りの1ヶ月半前に
この家に10日ほど滞在して討ち入りの十カ条を起草し
各地の同士に発信したあと、江戸に向いました。


称名寺4.jpg

称名寺には前述の「四十七士像」のほか内蔵助の書や
お面などが残されており、討ち入りが行われた12月14日には
毎年これら遺品が一般公開されています。

多摩川を渡ればすぐ東京というのが川崎の立地ですが
300年前に内蔵助たちが、平間村を討ち入りの最後の準備を
する場所として選んだのはその立地によるところと推測され
これは隠れた郷土史の1ページだと思います。

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