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外国語の格納庫

娘の友人が英国男性と結婚して、今英国に在住している。
友人からのメールを披露してくれた。
昨年小学校に入った男の子がいるが、学校の放課後にある
フランス語のクラブに入って、フランス語を習いだしたという。

母が日本人だから日本語はできる。家に帰ってひとつの言葉を、
英語ではこう言い、フランス語ではこう言い、日本語ではこう言う。
と話をするそうだ。「小さい子は外国語がすぐに頭に入るようで
驚いています」とのことだ。

幼少から2カ国語を話す人は、脳の言語中枢では
それぞれの言語が違った場所で理解されるそうだ。
日本語しか話せない人は、日本語も英語も同じ場所で
聞き取っているそうだ。

男の子の頭の中では、日本語の場所、英語の場所、
フランス語の場所と、それぞれの格納庫ができているのだろう。
外国語がうまくなるためには、幼少のころにこの場所を
確保することが重要らしい。
  
飛躍するようだが、漢字を覚えることはどうなのかと考えた。
漢語は日本語になっているが、もともとは外国語だ。
日本人が多くの漢字・漢語を使えるのは違う格納庫を持っているから
ではないか。

これを漢字教育に当てはめると、低学年から漢字を教えることは
効果的かもしれない。小学校低学年ぐらいから、
多少難しい漢字でも教えてみるのも効果的かもしれない。

孫が、小学校2年生だが英語の話をしたら、
学校で教えないのだから、家で勉強する必要はないと無頓着だ。
先生の言うことはよく聞いているようだから、
まぁいいかと諦めた。

トンボ

澄んだ空を悠々と飛ぶトンボを見ると秋を実感する。
害虫を食べるトンボは縁起のよい虫として大切にされ、
豊作の象徴だった。
 
日本で最も大きいトンボは鮮やかな緑色の複眼を持つ
オニヤンマ。近年、見かける機会がめっきり減ったが、
長い羽を広げ、悠然と飛ぶ姿は「王者」の風格が漂う。
オニヤンマの名前は、鬼のふんどし模様に由来するという。

鬼は鬼門と呼ばれる北東の方角から出入りするといわれた。
北東は十二支で「丑寅(うしとら)」。
そこから牛(丑)のように2本の角を持ち、虎(寅)のような
黒と黄色のしま模様のふんどしをする鬼のイメージがつくられた。
鬼のふんどしに似た模様をしているトンボが、
オニヤンマというわけだ。

トンボは、前進するが、後退しない性質から
勇猛果敢を身上とする武士に好まれ「勝ち虫」といわれた。
トンボは不退転の固い決意のシンボルとして家紋や
武具にあしらう戦国武士も少なくなかった。

トンボの古名は蜻蛉(かげろう)。蜻蛉は産卵を終えると
数時間で死ぬことから、はかないもののたとえに使われる。
前政権まで「短命」な首相が続いた。
次のリーダーが蜻蛉でないことを願う。
国民が困る。

銭湯

学生時代は風呂なしのアパートに住んでいたので、銭湯通いだった。
大学近くにも銭湯があり、夏の暑い日の夕方、
一風呂浴びてからサークル室などで飲むビールは極上で、
銭湯は生活の一部になっていた。

以後、銭湯とは無縁だったが、自宅のガス給湯器が故障して
風呂に入れず、3日間電車でスーパー銭湯に通った。
普段はカラスの行水だが、のんびりと、極楽気分を味わった。
 
スーパーの冠がつくだけで、銭湯は昔と趣が異なる。
ジェットバスやサウナ、露天風呂は当たり前だ。
横になって寝そべる湯、深く立ったままの湯、一人だけの湯など、
まるで浴槽の遊園地みたいだ。

風呂上りにはゲームコーナー、マッサージルーム、レストランなどで
楽しめる。家族の手軽なレジャーランドといったところか。

アパートは風呂付きが普及、歩いて通う銭湯は失われつつあり、
車で行く銭湯に移行した。学生時代と同じなのは、
フルーツ牛乳の販売だけだった。

情報交換の場といった銭湯文化は薄れ、富士山の絵もないが、
銭湯が憩いの場であることは変わらない。
思う存分、身体を伸ばせる浴槽は魅力的だ。

(M.N)

元横綱初代若乃花

戦後、復興から高度成長へと走り始めたころ、
数少ない娯楽の中で大人から子どもまで熱中したのは、
プロ野球と大相撲ではなかったか。
右肩上がりの時代を突き進む人々にとって、
ひいきのチームや力士の活躍は明日への活力であり、
希望の光だったように思う。

幼少の身には、すぐ勝負がつく大相撲の方が分かりやすく
なじみやすかった。
人気力士のメンコで時間の経つのも忘れて遊んだ。
当時は小学生の低学年から中学年、栃若時代の
真っただ中だった。

その後の柏鵬時代ほど記憶は鮮明ではないが、
”マムシ”と異名をとった、しぶとい栃錦と、”土俵の鬼”
若乃花が抜きんでて強かったことは覚えている。

若乃花は最高でも110キロ足らずの軽量だったが、
投げられて背中が土にまみれたことは聞いたことがなかった。
足が土に吸い付いている。俵に足が掛かれば、
根が生えたようにもう動かない。目が肥えたフアンや関係者は、
それを「かかとに目がある」と言った。
若乃花の強さを象徴する言葉だろう。

その元横綱初代若乃花の花田勝治さんが亡くなった。
82歳だった。港湾労働で一家を支え、角界入り後、
並外れた猛げいこに明け暮れた元横綱は引退後も、
厳しい指導で花形力士を育てた。
賭博にうつつをぬかした力士たちは”土俵の鬼”との別れに、
心からの反省と再出発を誓って国民を喜ばしてほしい。

(M.N)


故郷

先週、久しぶりに実家の墓参りをした。
父母の墓前で無沙汰(ぶさた)をわびながら、ふと横を見ると、
知人の家の墓が消えている。
遠方に住む家族が自宅近くの墓地に移したらしい。
 
近ごろは骨や墓を移す「改葬」や寺に永代供養を依頼する人が
増えているらしい。墓参りの代行サービスもあるそうだ。
以前は帰省の家族でにぎわった実家周辺がひっそりしていた。

途中、大分県臼杵(うすき)市にある「臼杵石仏」を訪ねてみた。
天然の岸壁に彫刻した磨崖仏(まがいぶつ)としては1995年、
全国初の国宝に指定された名所だ。その数59体。
巨大な石仏が並ぶ荘厳さに、ただただ圧倒された。

その中の一つ、高さ3メートル近い大日如来坐像の近くにある
立て看板を見てハッとした。
縁結びや合格祈願などと並んで、「リストラ除(よ)け」の文字だ。
ガイドの説明はこうだった。
石仏の頭部が長い間地上に落ちていたのを、1993年に修復して
「首がつながった」。それにあやかったとのことだ。
 
ちょうどバブル経済がはじけた後のことだ。
なるほど、と思いながらも複雑な思いに駆けられる。
一昨年の12月初めに大企業が人員削減を発表した。
懸命に石仏に手を合わせた方々の姿が目に浮かぶ。

臼杵石仏は平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫像されたという。
何百年も世の動きを見つめてきた石仏の目には、
現代人の所業がどんなふうに映っているのだろうか。

(M.N)

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