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勝負の世界

  • 2012年7月13日 10:40

「剛」と「柔」、「動」と「静」の際立った個性の違いの衝突が魅力だ。
どちらが欠けても魅力は半減以下にしぼむ。将棋は、「升田・大山時代」
(昭和23年ー54年)後は興味を失ったが、羽生善治王位・棋聖が、
かって感嘆した大山康晴十五世名人の通算タイトルを獲得数八十期を
更新された。続く中原誠十六世名人が六十四期。森内俊之名人などは
十期というからケタ違いの強さだ。

27歳年上の米長邦永世棋聖が最年長名人となった平成五年、
NHKで「羽生さんのおかげ」と言っていられた。「19歳の挑戦」の題で
新聞に載った羽生二冠の「勝負の世界で『これでよし』とする消極姿勢に
なるのが怖い。そこでストップし、後退が始まる」の下りに感銘した。
自分の長所のはずの「経験の差」が実はかわし業など、勝負を避けて
勝とうとする消極さだと反省。若手研究会を組織し、46歳で将棋を
一から学び直される。

50歳で名人位を獲得できたのはその努力に対する「将棋の神様の
ご褒美」といわれた。それまでの米長将棋はゆがんだ駒組で勝つ
勝負強さがあり「泥沼流」と言われた。安定度が増した反面、何を
してくるか分からぬすごみも消えた。知識必ずしもプラスにあらず。
「将棋巧者はほめ言葉ではない」と河口六段は言われる。

大山十五世名人は座っただけで対局者を萎縮させたという。
歴戦の古つわものの将棋観を根こそぎ変えてしまう羽生二冠の
すごさも底知れない。

駅舎

久しぶりに東京駅へ行って驚いた。工事の覆いが取れ、
タマネギのようなドームをはじめ復元された駅舎が姿を
現していたからだ。赤レンガに白い窓枠がよく映える
堂々たる威容にしばし目を奪われた。
尖塔(せんとう)などの装飾が豊かで、ヨーロッパの町にでも
迷い込んだような光景だ。

1914(大正3)年の東京駅開業時の建造で、日銀本店などを
手掛けた建築界の重鎮、辰野金吾先生の設計だった。
45年の空襲でドームや3階部分が焼失。今回の工事が始まるまで
半世紀以上の"仮設"状態だったといえよう。

駅の復元といえば、東京スカイツリーのお膝元、東武鉄道
浅草駅も話題だ。約80年前に建てられた7階建て駅舎は
74年の改修でアルミ材の外壁で覆われていた。これを取り去って
シックな外観と時計塔がよみがえった。

どちらの駅も、町の中心的存在だった駅という存在を当時、
いかに大事なものかと思っていた証拠ともいえよう。ひるがえって
昨今の駅舎といえば、なんとも貧相な建物ばかりに見えるのだが。

新幹線の駅は駅名の看板を外せばどこだか分からなくなるような
ものばかりだし、善光寺を意識したのか寺院風で趣のあった
旧長野駅などもとうに壊され、コンクリートの箱になった。

たかが駅舎と侮るなかれ。駅はその町の玄関だ。
降り立ったときに、おやっ、いい雰囲気だな、と思わせれば、
町への印象も変わってくる。地域のシンボルにふさわしく、
誇りを持てるような駅舎のデザイン、たたずまいを考えてみては
どうだろうかと、昔を振り返って偲ぶ一人だが。

 

学ぶ

人は「学ぶ」という言葉に一生向き合っていく。
母親の胎内にいるときから学習が始まっているともいえる。
だが、学んだつもりでも忘れてしまう。特に人生勉強では、
その傾向が強いようだ。

心理学者であり、文化庁長官も務めた故河合隼雄さんの
「生きること・学ぶこと」と題した講演内容は興味深かったことを
思い出す。。「いやいや勉強したものは身に付かない。
学んでいて楽しくなかったら本当に学んでいないのだ」と。

河合さんがそう得心したのは孔子の「論語」に出合ったからだ
といわれた。「之(こ)れを知る者は、之れを好む者に如(し)かず。
之を好む者は、之を楽しむものに如かず」。

学んでいる者より、好きだと思っている者が、好きだと思って
いる者よりも、楽しむものが一番上だという意味である。
楽しむ中で知識が身に付けば、こんなうれしいことはない。

同時に河合さんは「苦しみ伴わない楽しみは偽物だ」と忠告される。
学びとはまさに「苦楽」を共にすること。苦しんで難問を解いたときの
爽快感が忘れられない。一つの務めに苦しみもがいて、喜びを
勝ち取りたい。それが勇気なのだ。
 

人材→人財

  • 2012年6月22日 07:56

一般的に「人材」と表記する言葉は、場合によって「人財」と
置き換えられる。ある新入社員研修会で講師の人材育成
コンサルタントは、能力も意欲も高い人が「人財」、意欲は高い
ものの能力は並の人が「人材」と指摘していた。ちなみに
能力も意欲も低い人は「人罪」らしい。

聞いていて「なるほど」と思わず笑ってしまった。
駄じゃれも時と場合を選べば、深い意味を持つ言葉になる。
同時に、こうした言葉遊び的な感性こそ、日本人が古来から
育んできた感性なのかもしれないと思い至った。

講師によれば、意欲はあるけれど能力はまだ未知数の新入社員は
普通の「人材」なのだそうだ。要は、「これから一生懸命に業務を学んで
能力を高め、一日も早く企業にとっての財産としての『人材』に
成長してほしい」ということ。

ただ人材が人財に成長するには、本人の努力だけでなく
その企業全体の育成力も必要だ。希望と意欲を持って
入社してきた新入社員の力を伸ばすための環境が
整っていないと、人罪を生みかねない。

オッドマン・セオリー

ある企業の人事担当者が「面白い女性を採用した」と
まんざらでもない様子。聞けば、試験の出来は悪かったが、
面接で「型にはまらず可能性を感じた」と言う。
職場改革にと期待していると聞く。

組織論の一つに「オッドマン・セオリー」という理論がある。
オッドマンとは半端な、風変わりな人という意味。集団の中に
一人異端の者を加えると、かえって組織がうまく機能するという。
野球やサッカーでも、普段役立たずだが、劣勢になると最高の
働きをする選手がいる。アリやハチの世界も同じらしい。
エリートばかりがいいわけでない。

はみ出し者や大ばか者が組織を引っ張り、やがて見事な戦う集団へと
変化させていく。古今東西、そんな偉人伝がたくさんある。今の日本に
オッドマンはどれほどいるのだろうか。

偏差値教育に飼いならされ、厳しい就活では狭き門を突破するため
「望まれる人間像」をマスターする必要がある。そうした努力が逆に
角を矯めて没個性にしてしまう。

労働政策研究・研修機構が行った調査によると企業が求める人材は、
かっての「協調型」から「自主行動型」へ変化している。これも
時代の要請といえる。

本来、若者はどこかオッドマン的な性格を有しているはず。
企業や社会が最初から都合のいい理想型を求めては人材が育たない。
キャリア形成の中で型破りな個性をたくましく伸ばせるかが問われる。


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