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経済再生

「三本の矢」と聞いて、サッカーファンならJリーグの
サンフレッチェ広島を思い浮かべるのではないか。
日本語の三とイタリア語で矢を意味するフレッチェをつなげた造語だ。
三本の矢の由来はもちろん毛利元就だ。安芸(現在の広島県西部)
を拠点に、中国地方のほぼ全域を支配下に置いた戦国大名が
3人の子に書いた「三子教訓状」が基になって作られたとされる
有名な逸話が「三矢の教え」といわれる。

1本の矢では簡単に折れてしまうが、3本まとめると容易に折れない。
戦国の世を生き抜くために3人の結束を説く話として知られているが、
安部総理はデフレ脱却に取り組む例えとして「三本の矢」を持ち出したようだ。

政府が閣議決定した緊急経済対策では、金融緩和、財政出動、成長戦略を
「三本の矢」と位置付けて経済再生に取り組むという。近く閣議決定する
補正予算案では民主党政権下では、減少傾向が続いた公共事業が
大きく復活する。

経済対策として景気刺激に即効性のある公共事業に頼らざるを得ない
という点では変わり映えしない。安倍政権の誕生以来、市場は
経済対策への期待感から円安、株高に触れてはいる。
アベノミクスとも呼ばれる「三本の矢」は景気刺激とインフレ促進の
アクセルを踏むものだ。多くの庶民が景気が良くなったと実感できる
ものになるか、注視していきたい。

大横綱大鵬関

大鵬の土俵人生は高度経済成長とともに始まり、抜群の強さで
たちまち少年たちのヒーローになった。「巨人・大鵬・卵焼き」が
流行語になったほどだ。幕内優勝32回の記録はいまも破られていない。
その昭和の大横綱が亡くなった。「一つの時代が終わった」。
かってのファンはそんな喪失感に沈んでいるのではなかろうか。

大鵬は「天才」と言われるのを嫌ったそうだ。「ぶつかり稽古も四股や
てっぽうなどの準備運動も他の人の3倍はやって努力した。
天才なんかじゃない。鍛練が結果に表れただけ」。そう言う。
この努力する才能こそが天才たるゆえんだったのだろう。

けいこ場で初め猛烈なしごきを受けた。倒れると口の中に
塩や砂をがばっと入れられる。好きな言葉が「忍」と言うだけあって
それに耐えた。少年時代の貧しさが忍耐力を培ってくれたのだろう。
くじけそになると、決まって師匠が特大のビーフステーキを
ごちそうしてくれた。蔭ながら見守ってくれていたのだ。


横綱に同時昇進した柏戸の存在は大鵬にとって幸運だった。
互いに早くから闘志を燃やした。この闘争心が「柏鵬時代」を築いた。
柏戸の「剛」」大鵬の「柔」の激突は相撲ファンにはたまらない
魅力となった。「柏戸関がいたからこそ、私は頑張れた」が
大鵬の口癖だった。

「社会への恩返し」も忘れない。日本赤十字社に献血運搬車を
計70台も贈り続けた。大鵬の相撲人性は「努力」「忍」「感謝」の
心の大切さを教えてくれる。精神面でもまさに大横綱だった。

駅弁パラダイス

JR東京駅の赤レンガ駅舎が復元され、観光客の人気を集めているが、
もう一つ大きくにぎわっているのが全国の駅弁コーナーだ。
昨年8月、駅構内に開店した「駅弁屋の祭り」には、山形・米沢の
「牛肉どまん中」や香川の「たこ飯」など170種に及ぶ名物駅弁が
並べられ、買う人で混雑している。

駅弁は1885年に現在のJR宇都宮駅でたくあんを添えたにぎり飯を
竹の皮に包んで売り出したのが始まりとされる。それが今では、
新幹線で大阪へ出張に向かうサラリーマンが車内で北海道のいか飯に
舌鼓を打つ姿も見られるようになったと。駅弁はグルメのジャンルに
定着したということだろうか。

かって昭和の時代に旅先で味わう駅弁が格別にうまかったのは、
その土地の空気の中で食べたからではないだろうか。おかずも素朴で、
弁当のふたについたコメを一粒ずつはしでつまむと日なたの香りが
したことを思い出す。今、東京駅のコーナーでよく売れているのは
東北の弁当と聞くが、お客の中には被災地復興支援への
思いもあるようだ。

かっての「文庫本を持って旅に出よう」というキャッチフレーズにならって、
「駅弁を食べに地方へ旅立とう」。それでこそ真のグルメだと
新春早々呼びかけたいと思いも浮かぶ。

心の歌

寒波で凍える列島。松が明けないうちから
「体罰死」のニュースに心も冷え込んでしまいそうだ。
だから余計にというべきか、年の瀬にもらった
ある温(ぬく)もりが思い出される。77歳にして、
NHK紅白歌合戦に初出場の三輪明宏さんが、
全身黒の衣装で熱唱された「ヨイトマケの唄」である。

発売は1965年。工場現場で働き、貧しくとも強く生きる
母と子の姿を歌う。長崎市で生まれ育った三輪さんの
幼少時代の友人をモデルにして、作詞・作曲とも自ら手掛けた。
労働への賛歌でもある。創作の原点は、ある炭鉱町での公演
だったそうだ。気乗りしない舞台に立つと客席に目を奪われた。

「手や顔に黒い石炭が染み付いた人たちが歌に聞き入り、
満場の拍手を送ってくれた。自分が恥ずかしかった」。
三輪さんは、その時をこう回想する。額に汗して働く人たちに
喜んでもらいたい。そんな思いでつくった「ヨイトマケー」だったが、
差別的な言葉が問題視され放送禁止になった。しかし
半世紀近く、多くの歌手がそのメロディーをつないでできた。

<どんなきれいな唄よりも、どんなきれいな声よりも、
僕をはげまし、慰めた/かあちゃんの唄こそ世界一.>。
その歌はネットを通じ若者にも反響を呼んでいるそうだ。
親が子を、子が親を思う。いつの時代も錆びない
心の歌に暖をとる。

名門部屋の閉鎖

大相撲で出羽の海、春日野などと並ぶ名門だった二所ノ関部屋が
1月場所限りで閉鎖されるという。戦前の玉錦、戦後の大鵬という
昭和の大横綱をはじめ名解説者だった神風と玉の海、大麒麟や
青葉城といった人気力士を輩出した。力道山も在籍していた。

世代によって差があるかもしれないが、最強の横綱といえば、
大鵬を挙げるファンが今も多いのではないだろうか。
昭和30年代から引退する40年代半ばまでの大相撲の
一番の醍醐味は、この人の圧倒的な勝ちっぷりを見ること
だった気がする。同時代の好敵手、柏戸の豪快さとは対照的な、
冷静で手堅い取り口は、他の力士にない風格を感じさせた。

北海道で定時制高校に通いながら営林署のアルバイトを
していたとき、巡業に来た二所ノ関一門の力士に紹介されて入門。
異例の早さで昇進し、横綱になったのは21歳だった。よく
使われた「相撲の天才」という言葉を嫌った。当時の部屋は
荒稽古で知られ、<誰よりも多く、厳しい稽古をして強くなった>
という思いがあったからだ。(ロング新書『相撲道とは何か』)

四股、鉄砲、すり足などを反復するなかで学んだのは、
礼儀、しきたりであり、(力士として強くなろうとすることは、
人としての品格をあげる)という基本だった。閉鎖されることに
ついて、大鵬の納谷幸喜氏は「いろいろな人たちで築いてきた」
「寂しい」と語られたそうだ。言葉に込められたのは、
部屋の消滅への悲しみと、「品格」という相撲の極意が
失われないでほしいという願いだろう。


 

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